小説 昼下がり 第三話 『夏の終り…蝉しぐれ』 



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『夏の終り…蝉しぐれ』平原(ひらばる) 洋次郎
       (十二)
 数年ぶりの暑い夏だった。九月初めの暑
い日曜日。アスファルトから照り返す強い
日差しが辺り一面を温暖状態に化していた。
 昨年までの下宿屋の前の道路は砂利で覆
われ、所々に自然の土壌がむき出していた。
太陽が雲に隠れると涼しい風が吹き抜け、
六畳一間の小さな縁側に取り付けた風鈴の
音(ね)がメロディーを奏(かな)でていた。
 ―啓一はこの風鈴の音を聴きながら、三
年前の一人の女性のことを思い出していた。
新入社員としての初出勤の朝、右も左も分
からずに玄関ホールで戸惑っていたとき、
会議室まで親切に案内してくれた色白で、
笑顔が素敵な女性が彼女だった。
 名は山口 美保。啓一の二年先輩にあたる。
 啓一が入社して間もなく会社を辞め、寒
い朝、故郷岡山へ帰ってしまった。
 〔妻子ある上司に憧れ恋をし、思い詰め、
耐えきれなくなって身を引いたー〕と、同
僚より聞かされた啓一は、何とも言えぬ胸
の苦しさを覚えたことを記憶していた。
 ―それは……ある日の雨の降る寒い日だ
った。
 帰宅途中、人混みでごったがえす「池袋
駅」の広い改札口前で彼女とばったりと会

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ったことから、事の顛末(てんまつ)は始
まる。
      (十三)  
 「あら、川嶋さん、偶然ね。こんなに人
がたくさんいる中で会うなんて。偶然と言
うよりも運命的なのかしら」
 歯切れの良い、抑揚(よくよう)のある声
が啓一の胸に突き刺さった。
 「お茶いかが? 女性から誘うのは勇気が
いるものなのよ。いつも顔を合わせるけど、
ちっとも誘ってくれないじゃない」
 言葉づかいも品があり、育ちの良さが表
現ににじみ出ていた。
 「もちろん。女性の誘いを断るのは男の
風上にも置けないと言うからね。少し、
こじつけだけど―」
 啓一は訳の分からない言葉を言いながら、
緊張を解こうと大きく息を吸った。
 それよりも彼女の快活な言葉に多少の驚
きを感じた。
 普段は物静かで、大声を出す訳でもなく、
男性社員に対しても常識をわきまえた仕草
で接していたことを知っている。
 駅構内のエスカレーターを下ったところ
の一番奥に、BAR&喫茶『夕暮れ』があ
る。中に入ると、十人も座れば満員になる
カウンターだけの、マスター一人の小さな
BARだった。

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 昼間はアルコールを出さず、喫茶として
経営を続けている。
 カウンターの所々にガス燈をイメージし
たのか、薄明るいランプが置かれている。
 「マスター、ヘイグのハイボール一杯お
願いね。川嶋さん、ハイボールで良い?」
 「私も同じでー」
 格好良く〔カクテル・マンハッタン〕と
でも言いたかったが、美保の強い口調に従
わざるを得なかった。
 「まあ、相変わらず自己主張に乏しい人
ね。本来、メニューは自分で決めるものよ。
同じものもう一杯ね、マスター」
 啓一は入社以来、美保とは挨拶を交わす
程度で、表立った会話もしたことがない。
 薄暗いこの店でテキパキと熟(こな)す彼
女は、啓一にとって異次元の世界へ誘
(いざな)う魔女か天女か図(はか)りか
ねていた。
       (十四)
 「お待ちどうさま」
 少ししゃがれた声のマスターが二人を見
詰め、ハイボールを置いた。黒いあご髭
(ひげ)が、色黒で精悍な顔付きと似合っ
ていた。
 歳の頃は四十歳ぐらいだろう。美保のこ
とを良く知っているようだった。
 「美保ちゃん、あれかけるかい?」
 「お願い、マスター」

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